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こちらでも報告 支援物品販売 [日記]
ほかに報告する場所がないので、広場ブログで一応のご報告を。
11月3日猪名川で行われた森のコンサートのテーブルバザーで、塩製品と錦織からのお米への献金は、
総計 29450円でした。ありがとうございました。場所を提供くださった猪名川すきやねん会に約1割の3000円を献金し、残りを二か所に分けています。
11月23日の曽根教会バザーで再度支援物品販売を行います。ありがとうございました。
11月3日猪名川で行われた森のコンサートのテーブルバザーで、塩製品と錦織からのお米への献金は、
総計 29450円でした。ありがとうございました。場所を提供くださった猪名川すきやねん会に約1割の3000円を献金し、残りを二か所に分けています。
11月23日の曽根教会バザーで再度支援物品販売を行います。ありがとうございました。
’11.10.29.聖書ダイアリー マタイ8章 [日記]
「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(10)。自分の家に来ていただくほどのものではないから、ただ、言葉をくれと。現実的には、「お迎えする準備が整わない」段階でも、言葉がなければたちゆかない集まりを思い起こさせます。まだ準備ができていないから、十分ではないから、自分はふさわしくないから、と周縁をうろつくことは、相手を信頼していないし、本当は必要ではないといっているのと同じですよね。本当にひどく苦しんでいる仲間をなんとかするためには、来ていただくほどではございませんが・・・・何もなしってわけにもいきませんとの貪欲さも読み取れます。先ほど、長男を空港へ送り込みました。本日から沖縄本島への修学旅行5日間。民家でお世話にもなり、今日はガマめぐり。三線まで練習しての意気込みようは・・・。自分たちが計画した旅程なので、プログラムへの不平は言わず。しかし・・・荷物が多すぎる。あれもいる、これもいる、と。準備万端かと思っても、なお、車で、あ~やっぱりあれをもっていかねば、と。ところで、あなたの部屋の電気がつけっぱなしですが・・・。昨晩原発論議に熱を入れていたのはあんただろう。本当に必要なものはそれほど多くはないはずです。
’11.10.26.聖書ダイアリー マタイ5章 [日記]
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13)。腐敗を防ぐほどの量ではないし、際立ったパンチの利いた味でもありませんし、ましてや、「あなたがいたのか」と思われるほどのものではありませんが、しかしなお、塩気を帯びていたいとは思います。生徒「地の塩って、海からは取れない塩っていう意味かと思った。見つかりにくい、めずらしいものかと思っていた」と。なかなかやるじゃあないか。やっぱり純粋読者はすばらしい。アーメン。
’11.10.25. 聖書ダイアリー マタイ4章 [日記]
’11.10.21.聖書ダイアリー マタイ1章 [日記]
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19)。正しい人は、表ざたにするのを望まず、切ろうと決心する。つまり正しい人は、人目を気にしていて、本当は「切る」ことが難しいものを強引に切る力があり、決断力がある、ということでしょう。それならば、人目をはばからず、無理やりに強硬手段に頼ったりせず、優柔不断で迷いに迷っていることを、正しくないといわれてでも、赦してもらって生きる方がいいなあと思いました。ちなみに夢に現れた「主の天使」から聞かされたことの方がよっぽど大儀で到底引き受けられないような内容だったと思います。それはそれで、自分の力でねじふせずに生き残る道があったってことですよ。正しい人であることを続けるために、ひそかに(つまり他の人に知れないように)、片づけてしまうことって、DVと一緒です。聖書解釈的には「婚約していたが」「ひそかに縁を切る」ことそのものが、イスラエルの背反と重なっていますが、私たちは、繰り返し、こんなひそかな決断力をもつよりは、頭打ちながらでも、難しい方を選びたいと思います。
’11.10.19.聖書ダイアリー マラキ2章 [日記]
「あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う どのように疲れさせたのですか、と」(17)。いや、まことにその通りで、たいがい私が話すことなどは、主の顔のしわを増やし、攀(よじ)るようなことが多いと思います。どうぞ、しばし、ご辛抱あれ、おゆるしあれ、と思う日々です。マラキが、「離婚する人は不法でその上着を覆っている」と婚姻契約の破棄に対してたいそう不快感をあらわにしています。イスラエルと神の関係はいつも「婚姻制度」をもとにたとえられていますが・・・・実質は人間関係はそのような単純で恣意的な制度の中だけでは成立しなかったことを聖書そのものが暴いています。マラキにたてつくわけではありませんが、何が不法って、契約だからといって実質的には険悪な支配関係や隷属性を維持するために、「不法」と旗に書いて振りかざすようなことには、はっきりとノン。明日が、旧約の聖書日課最後になります。
’11.10.15.聖書ダイアリー ゼカリヤ書13章 [日記]
’11.10.14.聖書ダイアリー ゼカリヤ書12章 [日記]
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に憐みと祈りの霊を注ぐ。彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(10)。出エジプトの記憶の中で、救われ体験を何度も心に描く預言者の言葉は、人々にとってどんなふうに聞こえたかと考えます。もう一度あの時のように、勝ちたいものだと思っているでしょうか。預言者の幻が空をつかむように聞こえます。敵=罪だから、決定的に苦しんで悲しんだらいい、っと割り切って考えることができる単純さは自分さえよければよいということの表れだと思います。あえて信仰というのなら、そんなふうにしか考えられない自分について、この厳しい言葉からも考えられるようになりたい。
’11.10.12.聖書ダイアリー ゼカリヤ書10章 [日記]
「わたしは彼らを贖い 口笛を吹いて集める。 彼らはかつてのように再び多くなる」(8)。「羊飼いがいないので苦しむ」(2)人々が再び集められ、「今ではないかつて」が預言されました。かつてのように再び多くなることを「希望」にするのでよいでしょうか。羊飼いのない人々はよく知っていたはずです。ただ多いだけではだめなのだと。痛感。かつてのようにではないことに希望をもつということはなんと難しいでしょうか。「資料もない」「経験もない」ようは「やったことのないこと」ほど恐ろしいものはありません。しかし、再び多くなることが前と同じならば、また同じように、捕えられ、囚われ、失うのではないでしょうか。
’11.10.11.聖書ダイアリー ゼカリヤ書9章 [日記]
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子であるろばに乗って」(9)。その・・・・・王が、新しい束縛ではないことを祈ってやまないです。次なる「支配」が前の支配と頭がすり替わっただけだったら、おんなじです。雌ろばの子であるろば、って、「まだ小さい子ろば」って解釈されて「だれものせたことのないろば」と読みかえられていますが、本当は「どのろばでもよい」という意味じゃあないかと。どのろばでもよいはずなのに~、またわたしたちは、「誰ならよいか」を話し合ってしまう。
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