洗足木曜日
洗足木曜日の礼拝を終えて、イースター礼拝の準備をしています。いつも次の週のことを考えて働くことになるのは当たり前なのですが、今週の礼拝の余韻というか、受けた恵みをじっくり味わうまもなく、受難週にイースターの喜びの日についてあれこれと準備するというのも特別な恵でしょうか。洗足木曜日の夕べにもかかわらず、なんだか、とにかく恐ろしいほどに気が立っているというか滅入って仕方ありません。バイオのリズムでそうなのかもしれませんが、とにかく恐ろしいほどの孤独感と疎外感を被害妄想的に味わっています。だから、ノートに書かれている言葉のとげとげしさに、自ら恐ろしくなって、このままでは冷静に聖書をよめないとおもって、PCを開いたのです。ちょっと休憩です。
なぜこのような気持ちになるのか、昨夜からずっと聖書を読んできて、その続きを始めたら、墓のそばに来た女達の様子が迫り来て、いてもたっても仕方なくなったのです。墓に来た女達は何をしにきたのか?なんで彼女たちが来たのか?このメンバーに私は入っているのか、このメンバーは誰をさしているのか、足を洗ってもらった人たちはどこへいったのか?イエスにつながっていると言われた人たちはこのときどこへ行っていたのか?愛し抜かれたとヨハネで書かれた人たちではないこの人たちは一体だれなのか?そして、教会は、私は、この女を誰と読むのか、そんな風に思い始めたら、めちゃくちゃになってしまいました。教会で主は私の罪のために十字架にかかってくださったと言っているけれども、その言葉が別の意味で、力を発して、時にはこの言葉が暴力的に用いられていないのかなどと、あれこれと思索をめぐらせながら、告白する、ことの重みに耐えかねています。
少し間をおいて、一生懸命子どものごはんとお風呂と寝かしつけをしてから、もう一度、この場所に戻ってきたら、正気になっているでしょうか。自分に与えられた家族への奉仕を終えれば、私は墓の中が空だったことをよろこびとして確認できるのでしょうか。







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