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<title>広場で待っている間に</title> 
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<modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
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<tagline><![CDATA[考えたことや思いついたこと、感化され、刺激を受けたことを、自由に書いています。]]></tagline> 
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<title>こちらでも報告　支援物品販売</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-11-04 11:07:32+09:00</issued> 
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<![CDATA[
ほかに報告する場所がないので、広場ブログで一応のご報告を。<br />
　11月3日猪名川で行われた森のコンサートのテーブルバザーで、塩製品と錦織からのお米への献金は、<br />
総計　29450円でした。ありがとうございました。場所を提供くださった猪名川すきやねん会に約1割の3000円を献金し、残りを二か所に分けています。<br />
　11月23日の曽根教会バザーで再度支援物品販売を行います。ありがとうございました。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.29．聖書ダイアリー　マタイ8章</title> 
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<![CDATA[
「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」（１０）。自分の家に来ていただくほどのものではないから、ただ、言葉をくれと。現実的には、「お迎えする準備が整わない」段階でも、言葉がなければたちゆかない集まりを思い起こさせます。まだ準備ができていないから、十分ではないから、自分はふさわしくないから、と周縁をうろつくことは、相手を信頼していないし、本当は必要ではないといっているのと同じですよね。本当にひどく苦しんでいる仲間をなんとかするためには、来ていただくほどではございませんが・・・・何もなしってわけにもいきませんとの貪欲さも読み取れます。先ほど、長男を空港へ送り込みました。本日から沖縄本島への修学旅行5日間。民家でお世話にもなり、今日はガマめぐり。三線まで練習しての意気込みようは・・・。自分たちが計画した旅程なので、プログラムへの不平は言わず。しかし・・・荷物が多すぎる。あれもいる、これもいる、と。準備万端かと思っても、なお、車で、あ～やっぱりあれをもっていかねば、と。ところで、あなたの部屋の電気がつけっぱなしですが・・・。昨晩原発論議に熱を入れていたのはあんただろう。本当に必要なものはそれほど多くはないはずです。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.26．聖書ダイアリー　マタイ5章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
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<![CDATA[
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」（１３）。腐敗を防ぐほどの量ではないし、際立ったパンチの利いた味でもありませんし、ましてや、「あなたがいたのか」と思われるほどのものではありませんが、しかしなお、塩気を帯びていたいとは思います。生徒「地の塩って、海からは取れない塩っていう意味かと思った。見つかりにくい、めずらしいものかと思っていた」と。なかなかやるじゃあないか。やっぱり純粋読者はすばらしい。アーメン。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.25．　聖書ダイアリー　マタイ4章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-25 09:13:24+09:00</issued> 
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<![CDATA[
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」（３）。石を食べる人々がいることを知らされて、私の人生は変わったのです。それは一風変わった食習慣の話ではなく、パンではなく石を渡される人々がいるという事実についての話です。石はパンにはならない、ほかのものが必要だと探しに出ています。石なのに、パンだと思って我慢して食べさせられることを、「忍耐」や「従順」などというまやかしの信仰をつなぐつもりはありません。必要なのは、「生きる」に属するものです。パンに変える力は魅力的です。では、パンへの変更よりも、それ以外のものを獲得する旅にでたいと思います。寒暖の差、案じております。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.21．聖書ダイアリー　マタイ1章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-21 09:49:37+09:00</issued> 
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<![CDATA[
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」（１９）。正しい人は、表ざたにするのを望まず、切ろうと決心する。つまり正しい人は、人目を気にしていて、本当は「切る」ことが難しいものを強引に切る力があり、決断力がある、ということでしょう。それならば、人目をはばからず、無理やりに強硬手段に頼ったりせず、優柔不断で迷いに迷っていることを、正しくないといわれてでも、赦してもらって生きる方がいいなあと思いました。ちなみに夢に現れた「主の天使」から聞かされたことの方がよっぽど大儀で到底引き受けられないような内容だったと思います。それはそれで、自分の力でねじふせずに生き残る道があったってことですよ。正しい人であることを続けるために、ひそかに（つまり他の人に知れないように）、片づけてしまうことって、DVと一緒です。聖書解釈的には「婚約していたが」「ひそかに縁を切る」ことそのものが、イスラエルの背反と重なっていますが、私たちは、繰り返し、こんなひそかな決断力をもつよりは、頭打ちながらでも、難しい方を選びたいと思います。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.19．聖書ダイアリー　マラキ2章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-19 09:37:05+09:00</issued> 
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<![CDATA[
「あなたたちは、自分の語る言葉によって主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う　どのように疲れさせたのですか、と」（１７）。いや、まことにその通りで、たいがい私が話すことなどは、主の顔のしわを増やし、攀（よじ）るようなことが多いと思います。どうぞ、しばし、ご辛抱あれ、おゆるしあれ、と思う日々です。マラキが、「離婚する人は不法でその上着を覆っている」と婚姻契約の破棄に対してたいそう不快感をあらわにしています。イスラエルと神の関係はいつも「婚姻制度」をもとにたとえられていますが・・・・実質は人間関係はそのような単純で恣意的な制度の中だけでは成立しなかったことを聖書そのものが暴いています。マラキにたてつくわけではありませんが、何が不法って、契約だからといって実質的には険悪な支配関係や隷属性を維持するために、「不法」と旗に書いて振りかざすようなことには、はっきりとノン。明日が、旧約の聖書日課最後になります。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’１１．１０．１５．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書13章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-15 14:32:38+09:00</issued> 
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<![CDATA[
「私は数々の偶像の名をこの地から取り除く」（２）。「こうあるべき」と強い力で押し迫るものが世界に渦まきます。「こうあらねばならぬ」と人々は自ら神の真理はこれなのだと偶像を作り上げ、自分に居心地よい場所を教会だ、信仰だと教えるようになります。そんなところには混ざりたくもない多くの人々やそれを拝むことはできないと思う人々へこそ聖書はひそかに語るのです。<br />
　雨でしたが、近隣の幼稚園のホールをお借りして、ひかり保育園の運動会を行うことができました。ありがとうございました。<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<title>’11．10.14．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書12章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-14 09:35:44+09:00</issued> 
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<![CDATA[
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に憐みと祈りの霊を注ぐ。彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」（１０）。出エジプトの記憶の中で、救われ体験を何度も心に描く預言者の言葉は、人々にとってどんなふうに聞こえたかと考えます。もう一度あの時のように、勝ちたいものだと思っているでしょうか。預言者の幻が空をつかむように聞こえます。敵＝罪だから、決定的に苦しんで悲しんだらいい、っと割り切って考えることができる単純さは自分さえよければよいということの表れだと思います。あえて信仰というのなら、そんなふうにしか考えられない自分について、この厳しい言葉からも考えられるようになりたい。<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
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<title>’11．10.12．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書１０章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-12 09:02:46+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-12">
<![CDATA[
「わたしは彼らを贖い　口笛を吹いて集める。　彼らはかつてのように再び多くなる」（８）。「羊飼いがいないので苦しむ」（２）人々が再び集められ、「今ではないかつて」が預言されました。かつてのように再び多くなることを「希望」にするのでよいでしょうか。羊飼いのない人々はよく知っていたはずです。ただ多いだけではだめなのだと。痛感。かつてのようにではないことに希望をもつということはなんと難しいでしょうか。「資料もない」「経験もない」ようは「やったことのないこと」ほど恐ろしいものはありません。しかし、再び多くなることが前と同じならば、また同じように、捕えられ、囚われ、失うのではないでしょうか。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.11．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書9章</title> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-11">
<![CDATA[
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者　高ぶることなく、ろばに乗ってくる　雌ろばの子であるろばに乗って」（９）。その・・・・・王が、新しい束縛ではないことを祈ってやまないです。次なる「支配」が前の支配と頭がすり替わっただけだったら、おんなじです。雌ろばの子であるろば、って、「まだ小さい子ろば」って解釈されて「だれものせたことのないろば」と読みかえられていますが、本当は「どのろばでもよい」という意味じゃあないかと。どのろばでもよいはずなのに～、またわたしたちは、「誰ならよいか」を話し合ってしまう。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.8．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書7章</title> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-08">
<![CDATA[
「こうして七十年にもなるが　果たして、真にわたしのために断食してきたか。」（５）。9年前の今日、神戸は雨がふっていました。昼過ぎから帝王切開術。一人は仮死、もう一人はおなかの中を逃げ回るのを医師が捕まえました。最初に生まれた方が天良、逃げていた方は協佑。今朝は朝から自転車で教会のまわりを爆走中。生まれた時からいっつもくっつかされているので、カナウが悪いことをしたら、なぜかタカラが謝ります（逆パターンは稀）。そんなに誰かのために自分を責めることもないのにと逆に心配です。ことを早く解決したいらしいです。七十年の喪の期間を振り返り、また、「その悲しみ方は本当か」と聞かれるとは・・・・。厳しいものです。「互いにいたわり合い、憐み深くあり」（９）との言葉が胸に残ります。<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<title>’11．10.7．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書6章</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-07">
<![CDATA[
「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足元から若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を立て直す」（１２）。『若枝』nzrはナザレとの関連でイエスをナザレのイエスと呼ぶことの意味が重ねられたものといろんなところで話をしたので、自分でもそうだ、そうだと思い込むふしあり。<br />
<br />
　子どものころから、道端に生えている雑草を引きちぎったり、木の若い芽（若枝）を手折りながら歩くのが何となく癖で（今でも曽根駅から教会までの坂沿いの雑草が餌食）、よく叱られました。しかし、容易に折れてしまう感覚というか、もしかしたら弱いものへの攻撃性なのかもしれません。神殿を立て直す勇壮な若枝という人物ではなく、獰猛な私のようなものの手にかかってすぐに手折られる若枝、という意味なのかと今朝思いました。<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<title>雇ってくれ！</title> 
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  <modified>2011-11-04T02:07:39Z</modified> 
  <issued>2011-10-06 16:48:04+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://sone-kyoukai.blog.so-net.ne.jp/2011-10-06-1">
<![CDATA[
ぶどう園の労働者のたとえを生徒たちと読みました。生徒たちはセルフイメージを用いてねつ造する「履歴書」をしるし、私のような悪戯な主人によってやとわれようと競いました。なかなか上出来なねつ造ぶりのものもあり、皆で吹き出しながら、順番に人が選ばれ、本人たちにとっては何の意味もないと思われるような労働に、一人3つの飴ちゃんもらえるという約束でやとわれていきました。今年の労働は、折り紙をひたすらおり続けるでした（去年は、大豆を拾って瓶につめるだったからちょっとは創造的かも）。<br />
　こんな仕事でしかも３飴とわかっていても手をあげて「やとってくれ～」「わたしの履歴書みて」とせめぎ合いが始まります。「雇ってほしい人」と声をかけると立ち上がって何名かは「はいはい」とやる気を見せます。自己アピールもあり「折り紙歴15年です」とか（笑）。<br />
　最初に雇うのは、履歴書にびっしりと自己アピールした者・・・・しかし5人目は、意欲なく、履歴書にも名前と生年月日だけを書いているようないわゆる脱力系。5人目が仕事場に到着し、一折した時点で、「終了」と合図され、5人目から順番に3飴をもらって席へ戻ります。見ている生徒たちから「おまえ、ずるいぞ」そして一人目からは「え～？」<br />
　聖書の通り。しかしこの人々は話し合います。「いいです。かまいません。約束だったから、それに働けてうれしかった。選ばれてうれしかった」と。最後は、見ていた生徒から「なんであいつを雇って俺を雇ってくれなかったんだ」という意見が出るころには、残り時間あと5分。生の声が私の心にも響きます。なんで雇ってくれないんだ。先生がえこひいきしているからだ、と。<br />
　報酬の過多少の問題から、やとわれなかった人もいるのだ、というように聖書の世界が現実の問題に転換される瞬間です。たぶん私は生徒たちには、このワークショップの本当の意味までは十分に「まだ」説明できていないけれども、まずは私がその声を持って帰りました。聖書を読むために今年であった最高の子どもたちと思う瞬間です。<br />
　また来週ね。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>’11．10.6．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書5章</title> 
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<![CDATA[
「御使いがわたしに、『何を見ているのか』と尋ねたので、わたしは答えた。『巻物が飛んでいるのが見えます』」（２より）。え～～～～！なにこれ？しかも後半では、エファ升に女が入っているとあるのですが、エファ升って、23リットルぐらいだとありますから、どんな小さいところに押し込まれて・・・・といろいろ想像する余地ありです。この中からなにか良いことをお話しすることが期待されていますが、率直に。このやり取りを冷静に読むと、「何を見ているのか」に答えるとそのあと、ちゃんとその御使いが説明をします。だったらなんで聞くの？と思いました。何を見ているのか、本当は見えているものはすでに知られているのに、聞かれています。あなたは何を見ているのか？と。今日、聞かれましたか？「何をみているのか？」と。<a name="more"></a>
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<title>’11．10.5．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書4章</title> 
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<![CDATA[
「彼がわたしに、『これが何かわからないのか』と言ったので、わたしは『主よ、わかりません』とこたえると・・・」（１３）え？ここ？と思ってしまうような箇所を引用してしまいました。この章に二度出てくる「主よ、わかりません」。わからないのに、わかったふりするよりよほどいいかと直球を打ち返す、すがすがしさが満ちます。<a name="more"></a>
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<title>’11．10.4.　聖書ダイアリー　ゼカリヤ書3章</title> 
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<![CDATA[
「御使いは自分に仕えている者たちに言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着をきせてもらいなさい』」（４）　「あなたたちは互いに呼びかけて　ぶどうといちじくの木陰に招き合う」（１０）。とりあえずは、着替えよう。また汚れたといわれたら、先日買った洗濯機の中にいれてしまったらいいかと思っています。ぶどうといちじくの木陰です。聖書の中に脈打つ果樹園のイメージが心にひろがります。どうして手を伸ばし、取って、食べた人をけがれているというのでしょうか。果樹の木陰は、平安の象徴のはずなのに。<br />
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<title>’11．10.1．聖書ダイアリー　ゼカリヤ書1章</title> 
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<![CDATA[
「・・・・・あなたの怒りは70年も続いています。わたしに語りかけた御使いに、主は優しい言葉、慰めの言葉をもってこたえられた」（１３－１４）。70年は、おそらく一人の人の人生よりも長い時間だったことでしょう。具体的には捕囚でしょうが、いろいろなことがらを想像して読んでいます。そんなに長い間続くと、「優しい言葉」も「慰めの言葉」も、なかなか信じがたいと思いませんか？よいことよりも悪いことのほうが記憶に鮮明であることが多いものですし。目先の利潤や即効性を目的にした、虚偽の慰めにはご用心。すぐに人を喜ばせることができていそうで、それはただ、頭から濃い色のペンキをひっくり返して塗り替えられただけにすぎません。本当の優しい、慰めの言葉などは、たぶん、淡い色のはずですから。<a name="more"></a>
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<title>’11．9.30．聖書ダイアリー　ハガイ2章</title> 
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<![CDATA[
「『もし、死体に触れて汚れた人が、これらのものの何かに触れたとする。これらのものは汚れるだろうか』祭司たちは答えて、『汚れる』といった」（１３）。聖別された肉を入れた衣の裾がパンや煮物や葡萄酒に触れても、パンも煮物も、葡萄酒も聖別されなくて、「汚れ」は、「汚れる」んだと書かれてあります。そう？私は、髪の毛でイエスをぬぐった人を知っているんだけどなあ。後ろから衣にでも触れば、に至っては、遠まわしな積極さすら感じてしまいます。触られてしまったから十字架にかけられたんだ、お前のせいだって？もういい加減、大切なふれあいをこうやってけがれているとかいいあって、人をよけて暮らすのをやめようやい、って思います。ごみの日の朝に、息子がいまだに分別できずにぽいぽいおんなじところにごみを捨てているのに腹をたてながら、本当に問題なのは、「ぜ～んぶごみ」って考えてしまう単純さじゃあないかとすら思います。もっと繊細に一つ一つ考えろっていう言葉に聞こえます。<a name="more"></a>
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<title>’11．9.29．聖書ダイアリー　ハガイ1章</title> 
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<![CDATA[
「お前たちは多くの収穫を期待したが　それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ持ち帰るとき　わたしは、それを吹き飛ばした。　それはなぜか、と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃虚のままであるのに　おまえたちが、それぞれ自分の家のために　走り回っているからだ」（９）。う～ん。ちょっと落ち込む。自分の子どもたちの誕生日の夜に会議の予定が放り込まれてしまい、数時間考えたあげくにやっぱり「ごめんなさい、その日は子どもの誕生日なので夕食作りたい」と欠席を申し出てしまった。自分の家のために走り回っているかもしれない。しばらく説教を聞く日曜日が続いたので、ちょっとでも心が養われると自分の子育てのことなどを考えてしまい「こうやって考えればよいのか」と、「家へ持ち帰る」ことばかり。神殿を建てるには程遠いわたしの生活。ハガイは、山に登って木を切り倒して神殿を建てよと語ったけれども、山の木立ちの間に隠れて、イエスがもだえながら祈っているような気もするのです。悩んだ末でも「いや～やっぱりうちの子が大事だし」といったり「自分の子育て」の枠にはまりこむ私の苦しみについても、どうもあの人が祈っているように思えて。ちょっといつもと違った聖書の読み方をしています。<br />
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<title>’11．9.28　聖書ダイアリー　ゼファニヤ書3章</title> 
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<![CDATA[
「わたしはお前の中に　苦しめられ、卑しめられた民を残す。彼らは主の名を避けどころとする」（１２）。私の中にも、イスラエルの残りの者のごとくに神にしがみつき続ける部分が残されているでしょうか。その日を求める力がまだあるでしょうか。ゼファニヤは養われて憩う部分があるでしょうと、そこに光をあてました。だから私も今日一日のある場面ではわずかに残されたその部分に光を当てたいと思っています。<a name="more"></a>
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